遅くなりましたが 13日の美和さんのワークショップレポートです。
今回はクリスマスライブへ向けて クリスマスの曲を2曲教えていただきました。
その曲はこの2曲。
O come all ye faithful
Now behold the Lamb
O come all ye faithfulは久しぶりにアルトが主旋律という事でアルト陣はウキウキ。
ソプラノの音が大変難しく、「アルトでよかった〜」とホッとしていました
少しどっしりとしたアレンジで「行進してる感じで」という美和さんの言葉に
イエス様が生まれた日、羊飼い達の足取りはどれだけ喜びと期待に満ちていたんだろう
と思いました。
そして
Now Behold the Lambです。Kirk Franklinのファンなら誰もが知っている曲。
「主よ。どうしてそんなにまでも私を愛してくださるのですか」と
言葉にもならないほどに、イエス様へ強く強く歌う曲。
美和さんのリードによって最後には初めて来て下さった方も
初めてゴスペルを歌ったという方も一体となって讃美していました。
曲の内容ですが、歌詞の中に
「あなたの思いに背いてしまった時
私の罪が私達に分裂をもたらした
私はここに涙しながら立っています
新しい人生が始まる
あなたは私の罪の一つ一つを洗い流して下さった
神のひとり子が自由にしてくれた。本当の自由に」
とあります。
人間の最大の罪とは「神様から離れてしまう事」でした。
私自身の話になってしまって恐縮ですが
クリスチャンになるまで、正直 私は神様の存在というものを否定していました。
神様にしてみれば「最悪の親不孝者」だったんです。
しかし、そんな私を神様は根気強く見守って下さっていました。
それは受洗前の何ヶ月とかそんな短いものではありません。
振り返ってみると、色んな事がありました。
楽しい事や辛い事、幸せな事や悲しい事。
それは、全部 自分や身近な人達で作り上げてきたんだと、
乗り越えてきたんだと、そう思っていました。
でも、イエス・キリストという方に出会った後
その色んな事が1本の道に繋っていたんだという事に気づくのです。
その色んな事は、自分の両親が私を成長させる為に全て用意したのではない
自分の友達や同僚が私を強くしようと全て用意したのではない。
私を成長させるため、強くするため、そして喜びを与えるために
神様がその人達との出会いを私に与えて下さったのだと。
「思い出しては悩み、後悔し、そして自分を責める」
そんな事をいつまでも繰り返していました。
そこには罪責感の塊がゴロゴロありました。
「自分の力だけでやってのける」という事がいつの間にか、自分を苦しめていたのです。
そのような経験をされた方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。
その自分を苦しめる原因となっていたもの。
それが「神様から離れて生きていた事」だったんだと思います。
その罪を取り除くには、全く罪のない人がその罪を被るしかなかったのです。
しかも、罪を持っている人全ての罪。「罪」といわれる全てのものです。
その多さはどれだけでしょうか。
監獄に何年か入っていれば済む数でしょうか。
それは当時の極刑である「十字架に架かる事」でしか
取り除けないほどの数だったのではないでしょうか。
この十字架に架かるのは全く罪のない
嘘すらついた事のないイエス・キリストでなければならなかったのです。
もし、神様が「私から離れるならば」と私達を憎んだとすれば
こんな事は起こらなかったでしょう。
なぜ、ご自身のひとり子であるイエス様を十字架に架けられたのでしょうか。
そして、イエス様も なぜ他の人の数え切れないほどの罪まで被ったのでしょうか。
「神様がいるのに、なぜ世の中には悪い事がたくさん起こるんだ」
そんな疑問を以前は持っていました。
でも、「神様から離れるという罪によって別の罪が生まれてしまうんだ」
その事に気づいたんです。
人間を救うため、罪を取り除くためイエス・キリストは十字架に架かりました。
人々が、もう一度 神様の元へ戻ることが出来るように。
十字架に架かる不当な裁判の間もイエス様は全く異議を唱えませんでした。
十字架に架けられるまで、鞭で何度も何度も打たれ、全身傷だらけになっても
人々から唾をかけられ、罵られても何も言わなかったのです。
それは、この方法以外に私達を救う方法がないという神様の思いを知っていたから。
その方法を成し遂げるのは自分しかいないという事を知っていたから。
それほどまでに、私達を愛されているからなんです。
「キリスト」とは「救世主」のこと。
「なぜ、そんなにまでも私を愛してくださるのですか」
私達には測り知れないほどの大きな愛。
繋がっていた1本の道はこれからも延び続け、私を導かれる。
その1本の道とは、神様の、そしてイエス様の愛によって引かれた道。
もう ただ、悩み続け、苦しみ続け、自分が何なのか問い続ける必要はない。
なぜなら、イエス様の愛が、私をもう一度神様の元へと返して下さり
新しい命、人生を与えて下さったから。